◆Lovesickness 01 #3


「お帰り兄サマ」
 駐車場からの通路に響く海馬の足音に、モクバの弾んだ声が近付いた。それが腕の中を見てしぼんだ声に変わる。
「どこまで行ってたの。夕飯待ってたのに」
「悪かった。ちょっとトラブルがあってな」
 兄サマのちょっとは全然ちょっとじゃないとわかっているモクバは、追求するのはあきらめ、夕飯どうする?と訊いた。
「凡骨は…そろそろ起きるだろう。用意してもらってくれ」
「わかった。3人前頼んでくる」
 もう8時近くなっていた。まだ学校は始まっていないが、かわいそうなことをしたと思った。
 後ろに控えていた執事やメイドが、上着や城之内の荷物を持って部屋へ運ぶ。
 部屋へと向かう階段の途中で、城之内がぼんやりと目を開けた。
「あ…れ」
まだ焦点が合っていない。
「起きたか。もうすぐ部屋だ。暴れるなよ」
メイドと逆さまに目が合うと、やっと状況が飲み込めたらしい。とっさに起き上がろうとしたために力で押さえつけた。
「危ないと言ってるだろう。もう部屋だ。それまで大人しくしていろ」
赤くなった顔を、こちらに見えないように逸らし抵抗をやめた。できれば首を動かして欲しくはないのだが、丈夫な城之内には問題ないかとそれ以上声を掛けなかった。
 なる程、恥ずかしいのは他人に見られるからかと改めて認識した。とはいえ車内での暴言に比べれば、たいしたことでもないと思えた。

 城之内は羞恥と呼吸困難とで赤くなりながら、目を閉じ仕方なくされるがままでいた。
――なんでまたお姫様抱っこ?!どうしていつもオレがされる側なんだよ!! ――
高校時代気絶させられているとは知らない保健の先生からは、精密検査をと病気を心配され、逃げまくった。
とどめは杏子の科白だ。
「海馬くんの腕の中にいると城之内って可憐なのね」
……羞恥で消えたいと思ったのは、初めてだった。
 部屋のソファへ下ろされるときに、首に腕を回して動きを補助した。
「兄サマ…と、ノックしなくてごめん」
 どうして、タイミングって重なってしまうのだろう。今まさにキスしようとしてました、みたいじゃないか。モクバが気持ち悪がってないのが、唯一の救いか?
「何し・た・の・城之内?」
 海馬がいなくなった隙に、横たわっている耳元に口を寄せてモクバが訊いてくる。
「何って、話してただけなんだけど」
「兄サマが嫌がる話題を振らなきゃいいのに」
「それがわかれば、苦労しないって」
「訊いてみたら」
「え?」
「意外と教えてくれるかもしれないぜぃ」
 高校時代と違い、手を出したから伸されている訳ではないのは確かだった。モクバはきらきらとした目で、床に膝をついたまま、言葉を待っている。
しかし、弟に見透かされてる兄って。助言されてるこっちも同類か……。
「んー、一理あるかもな」
苦笑しつつ、大きく息を吐き出した。
ソファに座ろうと身体を起こしかけたら、首の後ろに激しい痛みが走り戸惑った。
「モクバ、湿布かなんか貰える?」
「あいかわらず、バイオレンスだなあ」
「それは、お兄サマに言ってくれ」
「貴様がおかしなことを言うからだ」
 べしっと張り手のような音を立てながら、首に冷たい物があてられた。
「兄サマ、湿布、持ってきたんだ」
 モクバがへえぇという顔をする。その表情から、後ろに立ってる海馬がやりすぎたと思っているのが伺える。
「じゃあ、下で待ってる。10分ぐらいしたら来て」
モクバは口の動きだけで、が・ん・ば・れ、と城之内に伝えると、ドアを閉めて出て行った。

 部屋に沈黙が訪れた。
 海馬はソファの後ろに立ったまま何も言わなかった。
――オレだって、海馬を横抱きにすることはできる。いつも終わった後に、ベッドを整えてから眠りかけの海馬を運んでる。体重だってそう変わらない――
 城之内は正面から訊いてみることにした。立ち上がると、寝室に近いドア近くへ海馬を引っ張っていった。
「首が痛い」
まだ湿布の箱を持っている腕ごと縫いとめる。上を向くと痛みが増す気がした。こんなときは海馬の背の高さが忌々しく思えた。
「そうだろうな」
抵抗はなかったが蹴られないよう片足を割り込ませ壁に押さえ付けた。
「今日は何がいけなかったんだ」
 海馬は唇を薄く開きかけたが、閉ざしてしまった。やはり答えは訊けないようだ。
それはほんの少しの時間だったが、腕の中の海馬が落ち着かないことに気付いた。また手を出してくるという雰囲気ではなく、戸惑ったような表情をしている。見覚えがあると城之内は思った。
……どこで?
もっと照明を落とした場所で。城之内が映りこんだ青い瞳を見たことがある。
……見下ろしたことがある。
ベッドの上の海馬?
「もしかして、エッチ系の話が苦手なのか?」
 途端に腕の中の身体が逃れようと暴れだす。頬に朱が差し、離せと短い叫び声を上げた。ぎゅっとつぶった目尻から、涙が少しこぼれている。
「ごめん!ずっと気が付かなくて」
謝罪の言葉のためか、逃れる気配が収まった。頭に手を添えもっと顔を引き寄せ、涙を舐めとった。
「同じ男だからって、一緒じゃないよな」
海馬はようやく目を開けた。
「これから気を付ける」
口付けた。少し塩辛い。
「…愛してる、瀬人」
思いきって口にした。
 海馬は突然力を失い壁を滑り始めた。支えようと腕に力を込めた城之内の顔に平手が飛び、互いの身体が離れた。
 海馬は茫然としていた。赤くなった掌を見つめながら動かなくなってしまった。
俯いたまま力なく立ち上がると、先に行ってモクバと食べていてくれと、寝室に消えた。
 正解を貰ったようだがどう対処すれば良かったのかは、城之内にはわからなかった。


 食堂に現れたのは城之内だけだった。
「悪い、モクバ」
「兄サマは?」
「もうちょっとしたら来ると思う。モクバのこと気にしてたし。先に食べろって」
 いただきますと挨拶をしたところで、モクバは城之内の頬が赤いことに気付いた。
「氷、貰ってこようか」
「ありがと」
 冷やしながら食事をしていると海馬がやってきた。目尻が赤くなっているのに、顔色が悪かった。
「遅くなってすまない」
 そう謝ると席に着き、会話もなく食事を始めた。
 モクバが城之内に目配せをしてきたが、伝える言葉を持たないために肩を竦めるジェスチャーで返すしかなかった。
 海馬の食事のペースはとてもスローで、城之内はだんだん居心地が悪くなってきた。
 モクバは2人を交互に見遣り
「勝手にしなよ」と小さく言った。
「モクバ?」
 海馬が声を掛ける。
「兄サマ。無理して食べても、また吐いちゃうよ」
 モクバは立ち上がり、海馬のナイフやフォークを取り上げる。
「城之内は、んー、悪いのかわかんないけど、何でこの状態の兄サマを見てほっとくの?」
「モクバ、それは…」
 海馬が止めようと、モクバの肩に手を置いた。
「明日どうなったか訊くからね!もう寝る、おやすみなさい」
 ドアを閉め駆けていってしまった。
 モクバは否定してくれたが、城之内は自分が悪い気がした。
「城之内」
 海馬が小さな声で呼びかけた。
「モクバの言う通り本当は何も食べたくない」
 顔が青ざめ、かすかに震えていた。
「力が入らなくて、部屋に戻れん」
「触っても平気か」
 うなずいて目を閉じた海馬を椅子から抱え上げると、浅い呼吸音が聞こえてきた。
 海馬は両腕を首に回し、城之内の胸元に頭を摺り寄せしがみ付いた。いつも眠りかけのときに見せる仕草だった。安定感は悪いが、安心できるなら構わないかとそのままにさせていた。
 途中で執事さんに会えたので食事のことは謝り、階段を上った。
「昔誰かにこうされるのが好きだったのか?」
 ふと思い付き、訊いてみる。
胸元でくぐもった声は聞き取りにくかったが
「父さま」
そう言った。

20150516