まだ早朝だというのに、空には入道雲が昇っていた。
暑い1日になるのだろうと日向は漠然と思った。
「日向さん、おはよー」
シューズの紐を結び直しているところへ若島津がやってきた。ベンチの隣へ座る。
「はよー」
別メニューをこなしてきたのか、タオルで汗を拭いているのが目の端に入った。
「今日昼、付き合って」
顔を日向に向けずに、早口でつぶやいた。
「夜じゃダメなのか?」
「ごめん、無理そう」
若島津は天を仰ぎ、日向は地に視線を這わせ、2人はしばし沈黙した。
「どこで?」
沈黙を破ったのは日向だった。
「社会科準備室かなぁ。そうだ午後の体育水泳だったから、着替えも持って出て」
タオルで頭を覆ってしまっているので見えないが、喜びがなんとなく伝わってきた。
後でシャワーも浴びられるという腹なのか。あいかわらず用意周到でムダがない。
それじゃお先にと足取りも軽やかに去って行く姿は、なぜか犬がうれしそうに尻尾を振っている姿と重なった。
反対に、日向は軽くため息をついた。
夏は暑いからできれば避けたかった。あの過剰なスキンシップを……。
空に視線を戻すと、雲の形が変化して、駆けていく犬を連想させたものがあった。
犬といえば……若島津に話が戻ってくる。
若島津は寝付けないとか寂しいとかいったものを、実家では飼い犬と過ごすことで解消していたらしい。
小さな頃から飼っている犬がいて、毎日の出来事はその犬に話していたそうだ。そんな風だから、一緒に眠ってしまうこともしばしばだったらしい。
あのお堅い家でと想像がつかなかったけれど、道場の経営で忙しく構ってやれないことを思えば、離れで息子が犬と眠ることくらい多めにみていたのかもしれない。
日向も何度か会ったことがあるが、吠えることもなくそっと身を寄せてきて、手の平をぺろぺろと舐められた。
黒い瞳はかわいかったし、さらさらとした長い毛は撫でると気持ちがよかった。
新聞配達で犬には散々な目に遭ってきたので、拍子抜けしたのを覚えている。
小6としては大きい部類に入る若島津や日向でも、腰よりやや高い位置に顔があった。かなり大きな犬だったのだと思う。
疲れが溜まっていたのか、触っているうちに日向も一緒に眠ってしまったことがある程だ。
(2人と1匹で眠っているところを、お姉さんに写真を撮られてしまったという恥ずかしい過去もある)
近所では見かけたことがない犬だった。
後からゴールデン・レトリバーという犬種であることを知った。
大きな身体だが穏やかな性格をしていて、盲導犬としても活躍しているらしい。
あの道場には犬より強い猛者が住み込んでいたので、番犬は必要がなかったのだろう。
「時間やベー」
ベンチに座ったまま、昔を思い出し少しほうけていたら、朝食に間に合わなくなりそうだった。
日向は急いでシャワーを浴びて着替えると、ロッカーから携帯食を取り出した。昼を抜くのはこたえるので、休み時間に食べるつもりだった。
こんな用意をするのは2年生になってからだった。今はもう同じ部屋ではないので、話がある時などに若島津から召集がかかる。
+ + +
東邦の入学式の数日前、日向の部屋へ届けられたダンボールに若島津の名を見つけた時は素直にうれしかった。
父を説得していると言っていたが、その後連絡がなかったため半ばあきらめていた。
本人は入学式にやっと現れた。
呼びかけられても、一瞬誰だかわからなかった。
きれいに肩口で揃えられた髪と眉下あたりに切られた前髪で、新しい詰襟を身にまとった人物と、記憶の中の姿とが結び付かなかった。
空手も怠るなという約束で、ぎりぎりまで山篭りをさせられていたらしい。
こんなに、にこやかにしゃべる奴だったかなと思いながら、それぞれのクラスへと一旦は別れた。
日向の中での若島津像は、必要なこと以外はしゃべらなくて、練習にひたむきで、外見にこだわらないというぐらいだった。
家に行ったこともあるが、たいてい空手の胴着か浴衣姿だった。
そこでやっと、もしかして普段の姿を知らないんじゃないかと疑問が湧いてきた。
寮で過ごすのが10日程過ぎた頃、お願いがあるんですがと日向に若島津が話を振ってきた。
その間若島津は練習も勉強も、もくもくとこなすという感じにみえていた。
では日向が何か気に入らないことをやっていたのかと思い(いびきがうるさいとか、ドアの開け閉めがとか考え出すときりがない)身構えて言葉を待った。
「椅子から降りてもらっていいですか」
そういう若島津は床の上に正座をしていた。
あわてて正座をしようとしたら、止めが入った。
「日向さんはできたらうつ伏せで」
妙に説得力のある声に従って、膝立ちの腕立て伏せのような体勢になったところで、いきなり首に抱きつかれた。
「わかしまづ…?」
しがみついたまま大きく深呼吸をした後で、やっと話し出した。
「俺のペルの代わりになってくれませんか?」
――ペル、あの大きな犬のことか?
たまにどこか遠くを見ていたのが、ちょっと気にはなっていた――
「代わりって何すんの」
「寝っ転がって今日あったことを話したり。あとは一緒に遊んだりかな…?」
うまく言葉にできないようだった。もう少し説明をしようと、うーんとつぶやく声がする。
無意識なのだろうが、若島津の腕の力が強くなっていった。
ヘッドロック状態になってしまって、酸素の薄くなってきた日向は、やってもいいからこの手を外してくれとこたえた。
若島津はあわてて腕を外すと、すいませんと謝りながら日向の頭を膝に乗せた。
「お…ま、え、もっと…空手屋だって自覚しとけ!」
やっと呼吸が整ってきて、ぜえぜえと苦しい息の中、どうにか日向が吠えた。
視線を上に向けると、しょんぼりしているのがよくわかった。
――俺よりお前のほうが犬みたいだけど――
「それで、そっちはごろごろしなくていいのか」
パチッと瞬きの音が聞えたような気がした。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
若島津も日向の隣にごろりと横になった。
「さっきなんでいきなり抱きついてきたんだよ」
「あの体勢って上から見ると、結構犬と同じくらいの大きさに見えて。…日向さんの黒い目を見たら、がまんできなくなっちゃって」
若島津はホームシックならぬ、ペットロス状態だったと言った。
日向さんじゃなかったら、頼めなかったからよかったーと、恥ずかしそうな笑顔を向けられた。
スキンシップの多さに、日向は最初戸惑った。
夏は暑いからと床に寝そべって話した。冬は寒いからと1つのベットにこもり、話しながらお互い眠りに落ちてしまうこともよくあった。
一緒に過ごした1年間で、若島津マニアか?!と思うくらいには、日向は普段とのギャップを数えあげることができるようになってしまった。
眠る姿のあどけなさに驚いた。いつもの厳しい武道家的なオーラが潜むというか。
伏せた睫毛が長い、髪がサラサラだなんて、自分と違うところにも。弟達以外の人の顔や身体を、ゆっくり眺めるのは初めてのことだった。
部屋での若島津は、ささいな話も聞かせてくれた。
ついでに、お礼といって日向の勉強もみてくれた。(これは大変ありがたかった)
国語の教師に髪が長いってねちねち言われてるなんて話でも、つるつるだからひがみかなぁーと、くったくなく笑うので、外で言うなよと、暴走を止めなきゃいけなさそうな気分にさせられたこともあった。
ぺらぺらと軽口でしゃべる若島津。
もちろん、日向のする話も興味深げに聞いてくれた。
あたり前だけどペルとは話せなかったから、日向さんだと会話になって楽しいと喜んでいた。
時にはぺたりと背中にすがりつかれて、無言……ということもあった。
幸いなのか日向は足の裏や腋の下という一般的な弱点に触れられなければ、くすぐったいと感じたりはしなかったので、好きなようにさせていた。
落ち込んでいるのかと思い、髪や背中を撫でてやると、気持ちよさそうにして眠ってしまった。
朝起きると身体のどこかが日向に触れていたりして、弟が1人増えたようだと思った。
若島津の性格をよくわかっていなかったと、つくづく思った。
サッカーでは一緒にいたけれど、普段の若島津とたいして過ごしたことがなかったと気付いていなかった。
寮で同室にならなければ、知らないままだったかもしれない。
若島津は弟気質だった。なおかつ、かなりの甘えん坊。
明和FC時代は、あまり感情の起伏を表に出さないタイプだと思っていた。試合の時には強気なスイッチが入るのかと。
現在でもサッカーをしている時以外で見かける表情は、3つくらい。
背筋を正した真面目顔(これ基本)か、もっと難しい顔か、逆に口元に笑みを浮かべるか。
ただし、わざとそうしている訳ではないというのがみそ。
実はその3つにも微妙に違いがあって、本人的には感情を顔に出しているつもりなのではないかと思ったからだ。
真面目顔の中にも喜びや、不機嫌さがあることに気づいた。目の端や眉毛の上がり方が微妙に違う。
おかげで小学生の頃のように、何を考えているかわからなくて揉めるということはほとんどなくなった。
+ + +
休み時間に何かを食べていると、周囲から囃し立てられるかといえばそうでもない。
もっと身体の大きい奴は休み時間毎に食べていて、なおかつ昼もしっかりとっていたりする程だ。
つまり日向の行為は、伸び盛りの男子中学生としてはそれ程珍しいものではなかった。
なんといっても犬代わりなので、一緒にご飯を食べたりはできないらしく昼休みに呼び出しがあると、早弁となってしまっていた。
校舎の外れの社会科準備室に行くと、若島津はもう窓際に座って外を見ていた。
日向は内から鍵を掛けた。
社会科は若島津の担任の受け持ち教科だった。教員の性格は簡単にいうと大雑把。もちろん他にも社会の教師がいるはずだが、準備室とは名ばかりで倉庫のような有様だ。
そこから地図を持って来いだの、いつも頼み事をされているうちに、閉まっていたことがない準備室にも、一応鍵が付いていると気付いたらしい。
この部屋が北向きなのが幸いしてか、中は思ったよりひんやりしていた。
「飲み物、水でいいんだっけ」
「あ…うん」
視線は外に向けたまま、ぽつりと返事があった。
ペットボトルを2本、空いている椅子の上に置いた。
そこまで近付いて、やっと部屋に入った時から感じていた違和感に日向は気付いた。
いつもなら、椅子に腰掛けて黙ったままなんてはずがないことに。
窓際は逆光になっていたので、若島津がどんな表情をしているのか見えていなかった。
鈍すぎると焦った。
若島津は静かに声もなく泣いていた。ぽろぽろと頬に涙が伝う。
座ったまま手を伸ばして、どうにか日向のシャツを掴んだ。
「ひゅ…う…がさん」
やっと声をあげて、肩を震わせながら泣き出した。腹の辺りのシャツがどんどん濡れていく。
日向は抱え込む形になった頭を撫でてやりながら、落ち着くのを待ったが一向に収まる気配がなかった。
仕方がないので、中腰になって頭から肩からすっぽりと抱きしめた。妹と小さい弟ぐらいにしか、したことのないあやし方だった。
背中を撫でていると、少しずつしゃくりあげる声が収まっていった。
うつむいたまま、鼻をかむ音が響いた。
見上げてくる目元は腫れていて、もうずっと前から泣き続けていたのだろうと想像できた。
何と声を掛けるべきなのかわからず、抱え込んだまま固まってしまった。
――泣き乱れている姿なんて、見たことがなかった。
か弱い女の子みたいで、こんな時なのに、ぎゅっと抱きしめたいと思ってしまった。
動揺した。自分の心臓の音が耳元で鳴っていて、聞えてしまうのではないかとはらはらした。
理由を、聞いてやらなきゃ、いけないのに。喉がからからで声が出せない――
「シャツ、びしょびしょにしちゃって…ごめん…」
シャツの腹も拭こうと、タオルを伸ばしてきたのを焦って避けてしまう。
「いい。気にしなくて。それより」
呼ばれた、ってことは聞いていいってことだよなと思いながら、
「どうしたんだ」
日向はなんとか言葉をつないだ。
若島津は一瞬言い淀むように視線をさまよわせたが、日向を見ながら話し出した。
「夜中に、ペルが死んだんだ」
ペル、あの大きな犬の名前。
「最近会いに帰ってなかったから……具合が悪かったっていうのも知らなくて…」
また涙があふれてきた。
「ごめんっ」
「なんであやまるんだよ」
膝の上でぎゅっと手を握り締めながら辛そうに叫ぶので、つられて日向も大声になってしまう。
「日向さんをペルの代わりにして。楽しくて、ペルのことあまり気にしてなかった」
だから、会いに行かなくて、ごめん、と天井を見上げながら謝った。
「それから日向さんにも、ごめんなさい」
日向には何のことだかわからない。
その間にも涙は頬を濡らし続け、唇をぎゅっと噛み締めている。
「俺は別に困ってないよ」
若島津は頭を振った。散らばる髪と一緒に水滴がキラキラ光る。
――キレイだ、とぼんやり思った。
何を見つめているんだ、今そんな場合じゃないだろうと頭の中で声がする。
愛犬が死んだ?慰めるべきなのに言葉が出てこない――
「日向さんは、もっと、小さい頃に、お父さんを亡くしているのに」
真っ直ぐ見つめてくる。
「悲しいって、どんなことかわかってなかった。それなのに、ごめんっ」
若島津は苦しげな呼吸のまま、大きく叫んだ。
その声で、やっとまともな思考が戻ってくる。
掛ける言葉が探せないのは、日向のせいだけではなかった。
それはとにかく謝りたいと、若島津が答えを出してしまっているからだった。
過去に父を亡くした日向の気持ちに気付いてやれなかったことに対してなのか、それとも人と犬とを同じ次元で考えていたことになのかはわからなかったが、今尋ねても返事はないだろうと思った。
若島津から見て取れるのは混乱、混沌、憔悴。もしかしたら、一睡もしていないのかもしれない。
早朝、タオルで表情を見せなかったのも、それを隠したかったためか。
膝の上で握りしめている手を取って、若島津を椅子から降ろし、壁を背にして2人とも床に座り込んだ。
反対の椅子から水を取って、キャップを捻ってから若島津に渡す。
口をつけるのを見届けると、日向もそれに習った。
「今からでも家に帰れば?」
肩に手を回して引き寄せる。
きちんと別れてきたほうがいい、そう思った。
「……うん…そう…だね」
「でも、今はちょっと休め」
若島津の肩を強く引いて、膝の上に転がした。
顔を拭かせてと起き上がろうとするので、タオルを被せてから目の上辺りに手を置いて暗くしてやると、やっと呼吸が和らいだ。
遠くでベルの音が響いた。午後の授業開始の鐘の音。
今の若島津にとっては、弔いの鐘にも聞こえるだろうと日向は思った。
「ペルは許してくれるかな」
被せた指伝いに、温かいものが広がっていく。
「優しいから大丈夫だろう」
もういない相手に問い掛けることはできない。そんなことはわかっていたが、せめて動き出す勇気を与えてやりたかった。
「うん…」
若島津は覆われた手の平はそのままにしながら、日向の方へと身体の向きを変えると、丸まって肩の力を抜いた。だんだんと深い呼吸に変わってく。
少し眠れたらいい、安心したように丸くなった若島津を見ながらそう思った。
若島津から静かな呼気が吐き出される。
腹の辺りがだんだんと暖まってくる感覚に、先程の感情がよみがえってきて、日向は空いている手で口を押さえた。
下半身に熱いものが集まってくるのがわかる。
――こんなに無防備で、悲しんでいる相手に何を考えているんだ。
1年一緒に過ごしても、愛しいなんて思ったことがなかったのに!!――
若島津を落ち着けるための目隠しが、今は日向を救ってくれている。
これ以上涙を見せないで欲しい。いつもの顔に戻って欲しい。
そう思いながら、強ばってしまった身体から力を抜こうと、気付かれないように深呼吸を繰り返した。
願いが通じたものか少しだけ眠った若島津は、はにかみながら上体を起こした。
瞳には強い力が戻っていた。もう、涙は乾いている。
「家に帰ってくる」
ぽつりとつぶやくと、正面からぎゅっと、首元にぶら下がるように日向を抱きしめた。
「ありがとう」
大きな犬の首元に前から抱きつくような体勢。安心して肩の力を抜いていたせいで、めいっぱい引き寄せられてしまった。
今までだって何度もされたことがあるのに、若島津の香りが一気に迫ってきて、息苦しさを感じ、また日向は固まってしまった。
背中を叩いて励ましてやることもできずにいると、日向さんの補給完了〜なんて明るい声の若島津が腕をほどいた。
その手が両頬を挟んでくる。
じっと顔を覗き込まれているのがわかったが、日向は自分の顔が赤くなっているのか青くなっているのか想像もできなかった。
「心配かけて、ごめん」
ゆっくりと、唇が言葉を刻む。
日向の顔色を不審に思う余裕は、若島津にはなかった。
「それから、さぼらせちゃって、ごめん」
まだうまく笑顔を作れない若島津を、慰めてやりたいのに喉が干上がっているかのように、日向は声が出せなかった。
「じゃあ、行ってきます」
若島津は日向の頭のてっぺんに軽く口付けると、しっかりした足取りで部屋を出て行った。
思考がぐるぐると渦巻いてしまって、立てないでいる日向だけが残された。
日向は窓際の、若島津が座っていた席のへりに頭を傾けた。
ぬくもりなんて残っているはずはなく、ひんやりとした座面が頭を冷やしてくれて気持ちがよかった。
いつから若島津はここで泣いていたのだろう。授業には出ていたのか。
どうしてもっと話を聞いてやれなかったのか。
悲しいのを、ずっと我慢していたんだろうに。
もうペルはいない……。
戻ってきたら、愛犬の代わりはいらなくなるんだろうか?
本物がいなくなってしまったら、若島津の性格からして、遠慮してこの関係は終わりにするつもりなんじゃないだろうか。
しきりにごめんとあやまられた。
あれは今まで迷惑をかけてごめんという意味だったんだろうか?
帰ってきたら、新しい関係を築こうと思っているのかもしれない。
傷ついている若島津のことより、自分のことばかり考えているなんて、おかしいってわかっていたがやめられなかった。
「……あいつに、触りたい」
今朝まで面倒だと思っていたのに。
また朝まで話し込んだりして、そのまま一緒に眠りたい。頭や身体を撫でてやりたい。
しかも今までしていたのより、もっと濃厚に触れてみたい。それこそ、汗や涙を舐めて味わってみたい。
そんなことを言ったら、どんな顔をするんだろう。あの困り顔だろうか。
試合中の厳しい顔で睨まれたら、立ち直れないかもしれない。
わかっていることはいくつかある。
とんでもない申し入れでも、代わりにしていたって負い目があるから、簡単には断れないだろうってこと。
空手の有段者で、生真面目にそれを守っているから、力ずくではね退けるってこともしないだろう。
「俺はずるいな…」
自嘲気味に口元を歪めながら、床から立ち上がった。
多分この気持ちを隠し通すなんて器用なことはできないだろうから、きっといっぱい困らせてしまうだろう。
せめて若島津の心が落ち着くまで、打ち明けるのを我慢できるようにと、今はもういない黒い瞳を思い浮かべた。
+ + +
日向は足早に教室へと向かった。午後の体育の授業が終わりそうな時間帯だった。
さぼった後にみつかるのも面倒だったので、カバンを取ったら部室棟へ行ってしまうつもりになっていた。
サッカー部のロッカールームを開けると、奥のベンチの上にジーンズで横たわる人影があった。
バッグを枕にして、目の上にタオルをのせているが、すぐに若島津だとわかった。
「日向さん?」
若島津から声が掛かる。
「おうっ」
後ろ手でドアを閉めながら返事をする。
――なんでまだいるんだよっ!――
叫びたい気持ちを抑えながら、ロッカーを開け、カバンを放りこんだ。
「すぐ出ようと思ったんだけど…」
なるべく見ないようにしているというのに、若島津はのんびりとした口調で話しかけてくる。
「ロッカーに、今度帰ったらあげようと思って…置きっぱなしにしてた物があったのを思い出して……」
語尾がかすれているように聞えるのは、また泣きそうだからなんだろうか。練習着に着替えながらも意識が若島津へと向いてしまうのを止めることができなかった。
「鏡…見たら、まぶたが腫れてて、びっくりして。流石にこのままじゃ電車に乗れないかなって思って、ちょっと冷やしてたんだ…。もうそろそろ行くよ」
「さっきよく俺だってわかったな」
ロッカーを閉めて、若島津を見下ろした。
「わかるよ。足音で」
口元に笑みが浮かぶ。
それでは今近付いているのにも気付くだろう。
日向は頭の上の方に立つと、顔の両脇に手をついた。
「日向さん?そうだ、腫れ引いたか見て…」
言葉の途中で、何か濡れて湿ったものが若島津の鼻先から顎へと過ぎていった。突然のことに硬直してしまう。
それをいいことに、日向は再び若島津の口元をぺろりと舐めた。まるで主人に甘える犬のように。
「な、なに?!」
がばっと跳ね起きると、日向を振り返った。
「たまにしか行かないのに、よくやられたなーと思って」
にかっと日向は笑った。
「腫れは引いてるみたいだぞ」
反動で落ちたタオルを拾いながら、日向が覗き込んでくる。
「ありがと」
タオルを受け取っても、顔を拭いていいものかどうか思案する。
思い出話しなんてされてしまうと、若島津は文句も言い返せなくなってしまった。
――代わりを頼んでいたけれど、犬の愛情表現まで頼んだ覚えはない……と思う。
なんでこんなことしてくるんだって、頬に血が昇ってくるのがわかる。夕べから色々なことがありすぎて、考えがまとまらない――
混乱している若島津がかわいくて、日向は額に軽くキスをした。
ぐぎゃ、とも、ふぎゃともいえない声が耳に飛び込んでくる。
しばらく頭を冷やそうと思った直後に、元凶が目の前に現れたので触れたいという欲求を止められなかった。
とはいえ、弱みに付け込んだことはわかっているので、流石にそれ以上は踏みとどまった。
「これ、洗っとくから。みんなが来る前に出ろよ」
結局タオルは日向の手に取り上げられてしまった。
真意は読み取れないが、これ以上仕掛けてくる様子はなさそうだと感じ取ると、若島津はぎくしゃくと立ち上がって、ドアノブに手を掛ける。
その背中に日向が声を掛けた。
「俺は迷惑だと思ってないから。もう代わりじゃないだろうけど、帰ってくるの待ってる」
後姿で表情は見えないが、肩から力が抜けたように感じられた。
「それに、お前より先に死なない」
これはいつも日向が思っていることだった。
弟達を残して死ぬもんかって。今まで誰にも告げたことはなかったが、自然と言葉にしてしまった。
若島津は思わず振り返った。
浮かんでくる涙で日向の輪郭はぼやけてしまったが、うれしかった。
「行ってきます」
今日聞いた中で一番力強い声を残して、外へと足を踏み出して行った。
練習メニューの説明に入る前に、コーチから若島津は急用で出掛けたと伝えられた。
ケガが多い若島津のことを心配してか、幾人かが理由を尋ねていた。
「本人に問題はない。忌引きだそうだ」
周囲がほっとしたのも束の間、コーチの顔に異変が起きた。
「…愛…犬の葬儀のため?」
ばか正直な若島津は、そう理由を記入していったらしい。
コーチは素早く立ち直ると、手にしたボードから顔を上げて説明に戻った。
「犬忌引きなんて、あいかわらず世間ずれしてるよね」
ストレッチの最中に、反町が話し掛けてくる。
「それだけ、かわいがってた犬なんだろうけどさ…」
日向が体重をかけるのに合わせて、ため息を吐き出した。
「…忌引き扱いには、ならないだろうな」
苦笑いで、日向はこたえた。
20110724/20131126
この話の若島津、なぜかクリオネのイメージなんです。儚いから?
純真で日向に素直でかわいい感じの若島津ってあんまり書かないせいかもしれません。