◆ 星空によせて


 7月に入るとすぐに、関東地方の梅雨明けは発表された。
それは例年よりも早かったそうだが、今夜も湿度は下がらず蒸し暑いままだった。
 熱中症で倒れる者が続いたために、就寝時のエアコン使用は許されていたが、まだ早い夕食後の時間帯には、扇風機は熱風を送るだけだった。
「日向さん」
 隣の席で辞書を開いていたと思った、若島津が声を掛けてきた。
 中学の入学式から3ヶ月、同室にも慣れてきた……と思っていたが、若島津には驚かされることが度々あった。
 いいところの坊ちゃん育ちであるとわかっていたつもりでも、まさかフォローを入れなければならない程だとは思っていなかった。
 そして先日まで問題になっていたものが、また手の中に置かれている。
 浴衣。
 グレーと、その下に紺地のものが見える。
 日向は国語が苦手だと自覚している。
 そんな自分に同郷だから同室だからと、周囲から若島津の説得を求められ、やっと浴衣をやめて、部屋着を着てくれるようになったのは先月のことではなかったか。
若島津に浴衣について説明をするのは、とても大変だったというのに。

「なんだ?」
 恐る恐る尋ねてみる。
「今日は日向さんも着てみて欲しいな」
 満面の笑顔で返された。
「部屋に居ても暑いし、珍しく空が晴れてるから、夕涼みも兼ねて星を観に行こう。
 風呂場で着なければ、何も言われないよね?」
 確認もとらずに、部屋着を脱ぎだすと、上下襦袢に着替え始めた。
 若島津は腰紐まで締めると、日向の方へやって来た。
「丈は合うと思うんだ」
 言いながら、腕をとって椅子から立たされた。
日向はランニングにハーフパンツ姿だった。
「短パンだけ脱いで、これに履き替えてもらえますか」
涼しい顔で、下の襦袢を手渡された。

 若島津が元々家で浴衣で過ごしていたのは知っていた。
それなのに、周囲から着ないようにしてくれと頼まれて、日向は仕方なく若島津を説得してしまった。
 理由は脱衣所で目のやり場に困るからという、皆さんの非常に個人的な事情のためだった。
 男子寮なのだし、女子が居るはずはない。
 若島津はまだ1年生だし、中性的なのはわかっている。
 しかし洗い髪をゴムでまとめて、白い肌をほんのり赤くしている浴衣姿というのは、本の中でしか鑑賞できないものであるため、ビジュアル的に非常にまずいらしい。
(いったいどんな本読んでんだ!とつっこみたかったが、皆さんの顔が切実だったので言えなかった)
 まさか頼まれたままの内容を本人に伝えることはできなくて、郷に入っては郷に従えだぞ若島津、寮はパジャマっぽくないジャージっぽいのが基本らしいと、半ば強引に浴衣を廃止させてしまった。
 後ろめたいので、代わりとなる普段着を一緒に買いに行ったりもした。
 寝るときには着替えてもいいのかなと言うので、それは構わないだろうと墓穴を掘ってしまった記憶がある。
若島津もどこかで真相を耳にしたのだろう。
 そんな訳で浴衣に関しては、若島津に頭があがらない。
 仕方なくマネキンよろしく浴衣を着付けてもらうと、存外涼しいことに驚いた。
 鏡の中には手ぬぐいを肩に掛け、扇子を帯に差し込まれた、見慣れぬ姿があった。
 布地をよく見ると単なるグレーではなく、灰色と白の細い線が交互に並んでいる。
紺色の帯にも、ところどころ白が使われていた。
「日向さんはそっちのほうが似合う」
 若島津は紺色のベーシックな浴衣だが、やはり何か文様が入っている。
白い帯を締めると、扇子を差した。

 +  +  +

 下駄がカランコロンと音を立てる。日向はビーチサンダルで代用した。
 小さな手提げ袋から取り出されたマグライトを点けると、外灯の少ない道でも危なげなく歩くことができた。
 どこまで、歩いていくつもりなのだろう。日向は尋ねられないまま後ろを歩く。
 寮の廊下へ出たときに、何人かがぎょっとしていたけれど、そ知らぬ顔で若島津は寮監へ外出届けを出した。
 すんなり届けが通ったと不思議に思ってはいたが、近付く建物に納得がいった。
 東邦の高等部には天体望遠鏡がある。
 校舎の入り口に明かりが灯され、『七夕の夕べ』という札が下がっている。
 近所にも開放して、天体観測会が開かれていた。大きな笹に色とりどりの短冊が揺れている。
「7月7日かあ…」
 日付など日向の頭の中にはなかった。
「そういや、家では毎年七夕やってたなあ」
 低いところには大きな文字で子供の書いたものが下がっていて、兄弟を思い出していた。
「はい。願いごと、書いたら」
 いつの間にか自分の分は括りつけたらしい若島津が、ペンと短冊を持ってきた。
 願いごと……しばらく考えてから括りつけた。
 大人も子供も、最初は屋上で星空の説明を受けた。ドームに移ってからも星の説明が講師から続けられる。
 天体望遠鏡を覗くのは、日向にとって初めてのことだった。
 入れ替え制で再び屋上に出ると、浴衣を着ている人達が目に付いた。
 女性の浴衣は白地に大きな花模様や紺地に蝶が飛んでいたりと、きらきらしたものが多かった。
それに比べたら、男の浴衣なんて地味なものだと思う。
物思いに耽っていると後ろから袖を引かれた。
「話しかけられそうだから、出る」
 若島津は下駄だというのに、あまり音を立てずに階段を降りていく。
日向の足音のほうが目立ってしまいそうだった。

「今日晴れてて良かったー。付き合ってくれて、ありがとう」
 校舎からだいぶ離れてから若島津の笑顔が向けられた。
 目の前には畑が広がっていて、のどかな風景だった。
風が吹いているわけではなかったが、2人ともそれ程汗をかいていなかった。
 日向は幼い頃を除けば、初めて浴衣を着て出かけた。
 着てみたら湿度の高い日本の夏を過ごすのに、こんなに快適なものはないだろうと思った。
 謝りたい、と思った。
 若島津が大切にしているものを、取り上げてしまったことに。

 暗い顔をさせるために誘った訳ではなかったので、隣で沈んでいる様子に何と声を掛けようか若島津は悩んでいた。
 どうやら他人とずれているらしい自分を傷つけないように、一生懸命説明してくれる日向に、たまには息抜きをして欲しかった。
 浴衣騒動の顛末はクラスで話を聞いてため息をついたが、襲われたりするよりよっぽどましで、先輩方には逆に愛着を感じてしまったぐらいだった。
 日向に浴衣を着せてみたのは、単なる思い付きなだけだったのだが。
「七夕って、いつもは梅雨が終わってないから、観測会って珍しいんだ」
 とりあえず、若島津から話しかけてみた。またマグライトを点けて歩き出す。
「そうなんだ」
「うん。それで急に開くことにしたみたい。寮の掲示板に貼ってあったの、気が付かなかった?」
「あー、あんま見ないから」
「そっか。けっこう大事なことが貼ってあるから、見たほうがいいよ」
「そうだな」
 後ろからついてくる日向の声は硬いままだった。
「若島津」
「はい」
 日向の言葉を待った。
「浴衣のこと、ごめん」
「…うん。……俺、あの寮好きだよ」
 やっと顔をあげた日向に笑顔で返した。
「浴衣って涼しいんだな。驚いた」
「そうでしょ!みんな知らないんだよね。寝るときなら、1枚だからもっと涼しいし」
「意外と動きやすいよな」
 腕を大きく振り回して笑った。


「ところで、俺って美少女的扱いなの?」
 コンビニで買ったアイスバーを大きめにかじりとった直後だったので、日向はしばらくむせてしまった。
「大丈夫?」
 手提げ袋からポケットティシュを取り出すと、日向と自分用に2枚抜いた。
「やば、溶けてきた」
 若島津はアイスクリームがコーンに垂れてきている。
それをペーパーで抑えると、大きめに1周なめとり、クリームがついた指をぺろりと舐めた。
「…………」
 日向は苦しくて浮かんだ涙越しに、じっとそんな様子を眺めていた。
無自覚にいつもこんなことしてたら、どうなっても知らないぞと思う。美少女じゃなくてオカズ扱いだと思うとは、伝えてやるべきなのか。
 同じ男のはずなのに、動きがしなやかというか、目を奪われてしまうことがある。
小さい頃からの鍛錬の賜物なのか、所作に無駄がなく上品だと思う。
それを皆が気付いているのかは、わからないが……。
「どうかなー、直接先輩達に話してみれば。クールで近寄りがたいと思われているみたいだから」
 日向はこれ以上面倒事に関わりたくなくて、着地点を変えてみた。
「え、そうなんだ。うん、じゃあ話し掛けてみる」
 そして他の部の先輩方も、早く若島津の空手の洗礼を受けてみるといいと密かに思った。
後ろから無言で肩に手をかけたりしたら、反射神経の鬼、人間凶器の怖さを知るだろう。

 +  +  +

 入学式に現れた若島津に、日向は最初気付かなかった。
 そのくらい、昔と印象が変わってしまっていた。
 おかしな話だが、両目が揃っている若島津に会うのは初めてだった。
いつもどちらかの目が隠れていて、あれでよくボールが捕れるもんだと感心していたことを思い出した程だった。
 小学校時代はわざと汚らしくしていたらしい。
 理由を訊いたら反抗期と、簡潔な答えが返ってきた。
何事も思いどおりに進めようとする父が嫌だったから、と。
 東邦に来ることは、家の援助なしには事を運べなかったため、色々と条件を呑んだらしい。
最低条件のひとつに、身だしなみを整えるが入っていた。
 入学までのいきさつを話す顔が複雑そうだったことを覚えている。
どうしてうまくいかないのかな……、若島津は父との対立をそうこぼしていたことがあった。
 父親とのことを日向に伝えるときは、いつもすまないって顔をする。
 父を亡くした日向に、父との揉め事を伝えること。
……生きているからこそ、できる対立関係。
日向にはもうその相手がいないのに、そう思っているのが言葉の端々から感じられた。
 気にするなと何度言っても、若島津は泣きそうな顔をする。
日向にとってはその顔を見るほうが辛かった。
「浴衣なんかより、ずっと困るんだけどな」
小さな声で、日向はつぶやいた。
「え?」
 アイスクリームを食べ終わった若島津は、拭いてもべたつく指を見て、舐めようかどうしようかと悩んでいるようだった。無意識でなければ、流石に躊躇するらしい。
 日向は後ひとかじりで終わりそうなアイスバーを若島津の口に突っ込むと、手首を掴んで指を舐めた。舐めたというより、口に丸ごと含んだ。
「あっまいなー、よく食べきったなぁ」
きれいに舐めとると、顔をあげて正面から若島津にニヤリと笑って見せた。
「そっち、爽やかだろ、みかん味。食べていいぞ」
 若島津は冷たいのと、驚かされたのとで身を硬くして、もごもごと言葉を出せない状態だった。
「驚いて毛を逆立ててる猫に似てる」
「冷静に分析してそうな言葉だけど、やってること、サイテーだから!」
 やっと氷を飲み込むと、日向にアイスの棒を突き返した。
 無理やり口に入れられたものでも、食べ物を粗末にはできないらしい。
そういうところが、律儀でおもしろいと思う。
「さっきお前が変なこというから、むせたんだぞ」
 だからお返し、と日向は先に歩き出した。
「変なこと?」
 考えながらも、歩みを早めて付いて行く。
「寮に戻ったらそっこー手を洗う!」
 若島津が言うので、そうしろ、そうしろと笑いながら、日向はもっとスピードを上げた。
 それにも遅れることなく付いてくる。
「下駄でも早いな」
「年期が違うから。靴より先に履かされてたかも」
 逆に日向を抜かしてしまう。
 もっとも、先に行ってライトで照らしてもらわないと、足元がおぼつかない。
 自然と駆けるという早さではなく、話もできる程度の歩みに2人は落ち着いた。
 初めて着る浴衣は、洋服と違って、脇を抜けていく風が爽快だと思った。
「浴衣、楽で気持ちいいよ」
 日向の声に若島津が振り向いて、笑った。

 日向が七夕の短冊に書いた願いごと。

 『笑顔でいてくれますように』



20110724/20131124
七夕に間に合わなかったのを覚えてます。